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OZAKI the café記念

連載企画「誰も知らない尾崎豊 唄の原点ロード」聖地巡礼①

連載企画「誰も知らない尾崎豊 唄の原点ロード」聖地巡礼

著 一銀海生

26歳の若さで亡くなった伝説のロッカー尾崎豊。
尾崎ロスのまま、子供だった僕らは大人になった。
当時の大人が物差しで見た尾崎とは違う僕らのカリスマ像、彼が生きた時代と共に名曲と聖地を巡る。

【街の風景 路上のルール なじめない朝霞】
1965年11月29日未明、自衛隊中央病院で尾崎豊は生まれた。
その後練馬の都営住宅に住み、小学校5年の時に父親の健一さんの朝霞駐屯地異動のため、一軒家に引っ越した。
東京から来たかっこいい転校生尾崎は嫉妬され、男子からはいじめの対象になる。
登校拒否児童になり、都内に遊びに行ったりと時間を潰していた。
その頃から自分の部屋で、兄のフォークギターで歌うようになった。
狭いコミュニティで生きづらさが曲にになっていく。
越境入学した練馬東中への実際の道のりも遠く、朝霞駅までバスか自転車で通い、数駅かかった最寄り駅下赤塚から徒歩15分。
家に帰るだけの朝霞生活でもあったようだ。
同じ東上線でも北朝霞を使わなかったのは、上りに近い朝霞が便利で、北朝霞までの坂道の傾斜も自転車にはきつかったと思える。

余談だが、尾崎の兄は早稲田大学に通い、尾崎が高校生の時には、井の頭公園に仲間をあつめ、尾崎に生ギターで唄わせたという。
兄弟仲が良かったようだ。

【僕が僕であるために 15の夜 練馬東中】
中学は一度学区の朝霞第三中学校に入学したが、どうしてもなじめず転校、練馬時代の小学校の仲間がいる、練馬東中学に越境入学をした。
当時の先生は尾崎を「おとなしい子だった」と評する。
1978年、練馬東中学校に越境入学し、10月にはフォークソングクラブに入った尾崎は文化祭で初ステージを経験した。
ギターの弾き語りに熱中していた頃である。
さだまさしの「雨やどり」を唄った。
12月、生徒会書記に立候補し、当選。
副会長との話もある。
1979年8月、中二の尾崎は問題児として、先生から1週間の農業修行を提案され、山梨で1週間過ごす。
10月、友人が長髪を先生に叱られ、無理矢理丸坊主にされた事に反発し、友人と家出。(「15の夜」の原型)一週間の停学処分。
この頃、仲間と初めてバンドを組む。
1980年1月24日、学校にて喫煙がばれ自ら頭を丸めて反省する。
2月1日、再び学校にて喫煙がばれ、謹慎処分となる。
中二までは結構な問題児だが、中三になってからは受験にいそしむようになる。
慶応志木には落ちたが、青山学院高等部に合格した。
時折、中学最寄りの下赤塚駅のベンチに腰掛けて、授業をさぼることもあった。
練馬東中学校の数学の先生で良くも悪くも有名だった河村先生(故人)がいた。
厳しさと情熱に満ち溢れた先生で、尾崎の唯一の理解者だった。
亡くなった後、尾崎はお墓参りに行き、妻子を連れて実家にお線香を上げに行っている。
葬儀のときは,アメリカでレコーディングをしていたため、自筆サインの入ったCD-ROMを先生の子息に渡したという。
学校や先生達、いわゆる大人達への反発、反抗を曲や詩に描いていた尾崎も、当時の学校の先生と違い生徒に対して情熱的だった(怒られたり、また一緒に泣いたり喜び合ったりされる)河村先生という存在だけは、特別に深い信頼と心を許していた。
「15の夜」の舞台となった公園は、練馬区の「向山公園」である。
長髪を丸刈りにされた友人らと家出をした。
この頃の学校の先生は暴力もOKだし、生徒を平気で機に縛りつけたり、殴ったりしていた時代でもある。
親も先生の叱り方に口出しすることはなかった。
暴力教師に反発するにはツッパって怖がらせるか、卒業式に先生を呼び出しリンチする、そんな文化が横行していた。
尾崎自身が族やツッパリの仲間になったかと言うと違う。
半グレの友達の代わりに手に根性焼きを作ったことはある。
当時の同中学の先輩に話を聞いた。
「尾崎は練馬の地元ではデビュー前からかなり有名。尾崎っていうとんでもない反逆児がいて、ミュージシャンを目指してヤマハにオーディションを受けて頑張ってる奴がいるって。この中学は僕が卒業した後もっと荒れたんだよ。学校の先生に対して反抗的な態度が大きくなったんだよ。これも尾崎がこの学校にいた影響は大きかったかもしれない。」
また別の同級生女子の証言では「彼は世間でいうような不良ではありませんでした。でも煙草はカッコつけて吸ってて、身体に悪いからと体張って止めたら、辞めてくれました。公立中は荒れてて、いわばそういう時代だったと思います。」という。

【愛の消えた街 太陽の破片 心のよりどころの場所】
尾崎が子どもの頃通った朝霞の駄菓子屋さんの関係者に話を聞いた。
「豊ちゃんは、おとなしい子だったよ。お父さんが厳しい人だったから、お母さん子だったね。お母さんはとってもいい人で気さく。尾崎豊の親ですって自慢したり派手にしたりもせずにね。だからお母さんに不幸があったときは、豊ちゃんはかなりショックを受けていたね」
店舗には尾崎がデビューの頃に書いた色紙と兄の康さんの結婚式でのスナップ写真がある。
タキシードを着た尾崎がはにかむ笑顔で写っていた。
1986年2月15日とある。
1985年に無期活動停止宣言した後だ。
アメリカに渡ったのが5月13日なので、充電期間中の尾崎の貴重な家族との写真を渡してあった。
店の名前は「太陽堂」。
優しく、きっぷのいいおばちゃんが迎えてくれる。

尾崎豊が時折散歩していた朝霞台駅までの黒目川遊歩道からの街の風景

写真:尾崎豊が時折散歩していた朝霞台駅までの黒目川遊歩道からの街の風景

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尾崎豊 30周年忌
フラッグcafe 演奏&ライブイベントスタート
「OZAKI the Café WITH」

●尾崎豊 625Days他
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●遅咲豊弾き語りライブ
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2022.07.10
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当日連絡先
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